「精神科医 香月悠のカルテ」
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「それで…精神科医になったんですか」
「信じられない話だろ? でもな、あいつの言葉はあくまでキッカケに過ぎない。あのあと、
自分で決心したんだ。人と人が誤解しあったまま別れるだなんて、あまりにかなしすぎる。
悩んでいる人の助けになりたい。だから俺は今、こうしてここにいる」
 呆気に取られた様子の帝に、香月は笑って答えた。今の自分の姿に自信が持てるからこ
そ、こうやって笑っていられる。
  
「俺は親の日記を読んで、大事なことに気づいた。俺は自分のことをきちんと親に話すべき
だったんだ。君も俺も話しても理解されないと考えて話さなかったが、それは間違ってい
たんじゃないかって今なら思う」
「なぜですか?」
 真剣な目で俺を見る帝。香月は促されて、またゆっくりと話し出す。
「スーパーで夕飯の献立はなににしようと考えるより、将来のことを決めることははるかに
難しいし大変だ。そんなに大変なことを決めるんだから、時間がかかって当然なんだよ。結
果だけ焦って手に入れようとしても、できないんだ。君と俺は、焦りすぎていたんだよ」
 それが、さっき帝に自分と同じだと言った理由だ。
  
「──さっきもそうだっただろう? 親は君がしっかり話しても気持ちを理解してくれないと俺
が言ったら、君はもう聞きたくないと途中で話を切ってしまった」
「……はい」
 反省をしているのか、素直に帝は頷いた。
「勇気を持って、理解されないことを分かった上で親に話す。そして、どれくらい長いときが
必要かは分からないが、親が理解してくれるときがくると信じて待つ。それが大切なんだ。
もちろん言葉で言うのは簡単だが、実際にやるとなると、ものすごく難しいことだとは思う。
それは俺も分かってるよ」
 話すのは相手に理解してもらうためではなく、ただ知ってもらうために。帝の目をまっすぐ
見つめて、「ただ…」と香月はつけたした。
  
「少し信じてみてくないか、自分の親を。自分のことをきちんと考えて想ってくれているっ
て。君にとっては信じるというより、コインの表裏、どちらかに賭けるようなものかもしれな
い。たった一度でもいい、信じてみてくれないか?」
「香月先生…」
 香月は必死に頼んだ。最初は友人のためだったが、今はそうじゃない。この子のために
──いや、やはり2人のために。
  
「俺は気づけなかったが、君はまだ間に合う。自分が後悔しないように、自分がどうしたい
かを真剣に考えてみてほしい」
「……分かりました」
 頷いた帝の瞳は、さびしそうな瞳からほんの少しだけ明るくなったような気がして、香月は
うれしくなった。  

 


 
 勤務時間がおわると香月は外で夕飯を食べ、その足でバーに立ち寄った。ここで秋山と
待ち合わせをしている。
「…遅くなってすまないな」
「いや、別に気にしてないって」
 独りテーブルで先に飲み始めていた俺のところに、約束の時間から少し遅れて秋山がき
た。
 別に特に気にはしない。秋山がどれだけ忙しいかは、よく知っている。急用が入ったとい
うことだって、珍しくない。ワザワザどうしたのかと訊くのは、無駄な話だ。
  
「──それで…どうだった?」
「……あの子はいい子だよ」
「香月! 私が聞きたいのは…」
 単刀直入に訊いてきた秋山に、俺は率直な意見を言った。秋山はその言葉だけでは満
足できず、イライラしながら声を上げる。
「事実だ。あの子は賢すぎるために苦しんでいる、やさしい子。力は生まれつきあるもの
で、精神的にはなんにも問題ない」
「そう、なのか…」
 ほっとしたというように、ため息をつく秋山。そんな姿を見ているうちに、香月はふと医大
のときにいつも秋山が言っていた言葉を思い出した。
  
  
【医師たる者、目の前の患者を治して満足するべからず。真の医師目指す者、未だ不明の
病、新しき治療法の研究等、進んで研究すべし。其の者こそ、真の医師なり。】
「…香月、覚えていたのか」
 知らない間に、口に出していたらしい。秋山が少し驚いた顔をしていた。香月はそれに構
わず、真剣な顔で告げる。
  
「お前の医者としての信念は、立派だと思うけどさ。そのために家族が犠牲になっても構わ
ないって、本当にそう思っているのか?」
「…思っていない」
「でもお前の行動は、そうとしか思えない。どうせ休みの日は部屋にこもっているか、病院
に顔を出したりしているんだろう?家族も大事だと本当に思っているなら、今すぐに行動を
起こすべきだ」
 香月の言葉は図星らしく、秋山は黙ったまま。なかなか返事をしないのは、どうしたらいい
か分からないためだろう。
 秋山の悩んでいる様子を見つめ、香月はまた語り始めた。
  
「いいか。親子の縁っていうのは、絶対に切れたり離れたりしないものなんだよ。ただ互い
に背を見せて相手の姿が見えないから、相手が離れてしまっているんじゃないかって振り
返らずに思い込んでいるだけなんだ。大切なことは、背を向けずにちゃんと向き合うこと。
もし向こうが背を見せたままなら、こっちから歩み寄ってやるんだ。大丈夫、親子の距離は
一定なんだから肩をつかまえることなんか簡単さ」
 向き合ったそのとき、気づくはずだ。お互いの距離が思ったよりも短いものだったことを。
こんなにも近くにいたのに、自分がずっと気づかずにいたことを。
  
「まあ…つかまえたあと、振り向かせることができるかどうかはお前の腕次第だけどな。─
─お前から歩み寄ってやれよ」
「…だが、あの子が聞いてくれるだろうか」
 不安だ、と秋山の瞳が揺らいで訴える。
「お前がそう思っているように、あの子だって不安なんだ。……さて問題です、あの子が不
安なのは誰のせいでしょう?」
 最上級の笑みで、皮肉を言ってやる。帝の仕返しだ。
  
「…分かった、きちんと時間を取って話すよ。それでいいんだろう?」
「よろしい。これからは良き医者だけでなく、良き父親となるように」
「ああ」
 これでひとまず親子の話はおわり。じゃあ、もうひとつ。

 


 
「そういえばお前、さっちゃん泣かせてるんだって?」
「人聞きの悪い、そんなことはしていない。それに人の妻をそんなふうに呼ぶな」
 あっさり否定されてしまった。一体どうなってるんだろう? 秋山が香月にウソをつくわけ
がないのだが…。
「人聞きの悪いって──帝が俺に言ったんだぞ」
「帝が?」
 秋山は目を瞬かせる。本当にびっくりしているみたいだった。ワケが分からない。
「ああ、俺はあの子に頼まれたんだ。だからその辺のところ、詳しく聞きたいんだ。心あたり
ないのか?」
 香月が再び訊くと秋山は考え込む素振りをして、やがてぽつりと呟いた。
  
「────もしかして、あれのことか?」
「なんだよ、やっぱりあるんじゃないか」
「あれは…冴月の演技だよ」
「……は?」
 演技とはどういうことだろう。よく分からないと眉をひそめると、秋山は声を落として言っ
た。
「…お前、冴月が本当に泣くと思うか?」
「オイ、コラ。自分の奥さんつかまえて、そりゃないんじゃないのか?」
「そんなこと言って、昔のあいつを知っているお前だって、同じことを思ってるんだろう?」
「そりゃまあ…否定しないけどさ。さっちゃんは結構たくましかったもんな」
  
 たくましい、というのは誤解を招く言い方かもしれない。元気でパワフルなイメージがしてし
まうから。冴月の場合はたいていのことには動じないという、冷静沈着な女(ひと)だった。
 実は、香月・秋山・冴月の3人は同じ高校。昔から2人とも情けないことに冴月には負けっ
ぱなしである。それほど彼女は強かった。
「…香月、お前本人の前でそんなふうに呼べるか?」
「冗談はよせよ、お前みたいに呼び捨ても絶対にムリ。さん付けさせてもらうよ」
「だろうな…」
 話がずれたぞ、と香月が注意すると、秋山はすまないと言って本題に戻す。
  
「冴月が泣いたふりをして、私に言ったんだよ。──あなたはいつも仕事ばかり。他の子供
を見ている時間はあるのに、自分の子供を見る時間はないのか。自分はひとりでも平気だ
から、あの子だけは…」
 そのときの冴月の姿を思い出したのか、秋山の表情が陰る。
「泣いたのがふりだとしても、その言葉は冴月さんの本心だろう」
「…私もそう思う。あれが演技でも、私が冴月を泣かせたということには変わりがない」
 沈黙が流れた。どう言ったらいいものか…と考えたとき、ふと香月の頭に浮かんだことが
あった。冴月も夫と子のことで悩んでいるのなら、自分の用意していたものが思わぬ形で
役に立つかもしれない。
  
「じゃあ、そんな冴月さんに俺からのプレゼント。渡すの忘れるところだったよ」
「手紙…か?」
「きっと冴月さんの助けになると思う。封はしていないが、中は見るなよ」
「お前が冴月宛に書いたものを、見るわけがないだろう」
 むっとして、秋山が眉をひそめた。香月は秋山の真面目な性格は知っていたから、から
かっただけなのだが。
「俺はもう帰るぞ。報告も済んだし、手紙も渡したから」
「ああ、ありがとうな。…私はもう少しここにいることにする。これからのことを考えるため
に」
「それがいいな」
 頷いてその場を後にしようと歩きだした香月は、急に踵を返す。
  
「どうしたんだ、香月?」
「──ひとつ言い忘れていたよ」
 にやりと笑って近づいてくる香月に、秋山は顔をあからさまにしかめた。香月がこんな顔
をするときは決まってろくなことがないと、経験上知っているからだ。そして予想通り、香月
の口から爆弾発言が出た。
「俺、帝の父親になるから」
「……ちょっと待て。言っている意味がよく分からない」
「だから、俺はもう帝のもうひとりの父親になるって言ったんだよ」
 困惑しつつ、秋山は首を振った。
  
「そんなこと、あの子が納得するワケが…」
「本人からの了承はもらってるんだなー、これが」
「な…っ?!」
 普段冷静な秋山の面食らった顔を見て、香月はより満面の笑みになり声を出して笑っ
た。分かってはいても、実際見るとやはりおもしろいものだ。
「──せいぜい愛想尽かされないように、がんばれよ。本物のお父さん!」
 香月は秋山の肩を数回軽く叩き、得意気に歩き出した。秋山がどんな声をかけようが、
それはただのBGMだ。気にしない、気にしない。
  
  
 父親宣言をしたキッカケは、そもそも帝を安心させようと思ってのことだった。もしも君の
父親に理解してもらえなかったら、そのときは自分のもとにおいで──と、誘いの声をかけ
たのだ。
 秋山がそこまで愚かではないことは、香月はよく知っていた。けれど帝が自分のもとへ頼
ってきたら、親友を説得してでも引き取る覚悟はたしかにあったことは紛れもない事実。
  
 香月の気持ちがいい加減でない証拠に、またなにかあったらおいでとも声をかけた。『も
うひとりの父親になる』という宣言には帝も驚いきながらもよろしくお願いします、と苦笑だっ
たが初めて笑って答えてくれた。
 ──こういう瞬間があるから、この仕事をやめられない。帝の顔を見ながら、香月はそう
強く感じた。
  
 大学や大学院でどれだけいい成績を残していようが、30代の自分はまだまだ新米であ
ることには変わりない。そんな自分だからいつも誰かの力になれるとは限らないけれど、そ
れでも少しでも助けになれたらと想わずにはいられないのだ。
 願いが叶ったそのとき、なんとも言いようがない幸福感で体が満たされる。この瞬間より
も、しあわせなときはないと思えるほどに。
  
 自分の仕事に充実感を感じながら、ふと夜空を仰ぐ。空には闇に負けないようにと、明る
く光り輝く星たちの姿がある。
 2人の未来もあんなふうになったらいいな、と香月は瞳を閉じて静かに祈った。
  
【E N D】

 

 

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