かつて僕には、大事なものなど何ひとつなかった。
恵まれた環境には育ったものの、どうしても手放したくないものなく。
自分の傍にあったものが手から離れても、何とも思わなかった。
何に対しても興味が持てず、ただ日々を無駄に過ごしていたから。
そこに付き人がやってきて、薬師が付き添うようになって。
共に将来を誓い合う人に出会い、護りたいと想う大事なものが増えていった――。
「――ミカド、せっかく薬師の長がお迎えにきて下さったのに、行かなくてよかったのかい?」
「……くどい。俺はここに残ると先ほども言っただろう」
何度か質問した僕に、ミカドは眉間にシワを寄せて言った。
「君は望んでここに残っていたわけじゃないのに。契約書はこの間君の目の前で僕が破ったよ?」
「もともと契約書に縛られていたつもりはない。俺は俺のためにここに残ったんだ」
「…そう」
「だいたい今まで診てきた患者を放って、今更他の国に行けるはずもない」
ふいと横を向いた不機嫌な顔も、そのあたたかいセリフに思わず笑みがこぼれた。
「…ありがとう」
「何故お前が礼を言う」
「この国の次期王として、我が国民に癒しをもたらしてくれることに」
こころからの感謝を。
『――らしくなってきたじゃないか』
「…ん? なにか言ったかい?」
「いや、何も」
流されたのが妙に気になって、さらに問いとめようとしたその刹那。
「…薬師さま、こちらにいらっしゃいましたか! あ、レイヤも一緒だったのね」
顔を出した愛妻に思わず、笑顔がこぼれる。
「そんなに慌ててどうしたんだい、僕の姫」
「…………」
ミカドが僕の妻への呼びかけに、顔をしかめた。彼の前だけ彼女をそう呼んでいるのはここだけの内緒だ。
「今旅立たれるそうです、長が」
「…だから?」
必死の呼びかけに、いつも通り冷淡な声。まったく僕の妻に向かって…。
でも彼女は怖気づいたりせずに凛として、話を続ける。
「先ほどは、あまりお話なさっていらっしゃらなかったじゃないですか。余計なことかもしれませんが、最後にお話しになった方がよろしいかと思います。今なら間に合いますから」
「……もう用は済んで、ここから去る所だ。失礼する」
話をする、しないの返答はせずにミカドは部屋を出て行った。
「…大丈夫かしら」
「彼のことなら、気にしないでいいよ。話をしてくるはずだから」
「なんでも分かるのね」
「まぁね」
3年の付き合いだから。
「2人で契約のお話をしていたの?」
「再確認をね。もともと契約は僕と長の2人でしたものだから。さっき彼が長に『自分はここに残る』と言った言葉が気になって」
「薬師さまはなんて?」
「今までの患者を放って、他国には行けないと」
「うれしいお言葉ね」
「…そうだね」
彼女の言葉に深く頷きながら、僕はミカドがこの国に来た頃のことをふと思い起した。
──最初は、ほんのちいさな疑問だった。生まれつき、将来王となる運命を背負っていた自分に、この国を守っていけるだけの力があるのか、と。
こころに生まれた疑問は、日に日にふくらんでいき。次第に不安へと変わっていく。それがこころからあふれ出すほどに大きくなっていたことに、僕はまったく気づいていなかった…。そう、薬師である彼に出会うまでは。
(……今日も、か)
朝目を覚ますと、体が重い。それゆえにすぐ起きることはできずに、背をベットに預けたままだ。ここ最近、毎日続いている。
体の重さは日によって異なり、少し重いだけで特に不自由しないということもあるし、イスに座っている程度なら平気ということもある。
1番悪いのは、イスに座ることすら億劫に感じるときだ。こんなときは横になっている状態が楽なのだが、連日公務があるというのに1日中寝ているというワケにもいかず、無理に動かしている。
(まあ、動かそうという意思が強ければなんとかなるしね…)
部屋の置時計を見やると目が覚めてから、すでに10分。いい加減起きようと背をベットから離す──と、部屋にノックの音が響いた。
「レイヤさま、おはようございます」
「おはよう、トモアキ」
寝室に入ってきたのは、レイヤの付き人。レイヤの元までくると、それまでの笑顔だった顔を曇らせた。
「最近お顔の色が、少しばかりすぐれないような気がするのですが…。まさかどこかお体が悪いのでは?」
「…心配しすぎだよ。ただ、夜遅くまで本を読んでいたせいじゃないかな。つい夢中になってしまったから。これからは気をつけるよ」
とっさに出た嘘だったが、うまく誤魔化せたらしい。彼にはなんとしてでも不調を悟られてはいけない。
「それならいいのですが、くれぐれも気をつけてくださいね。大事なお体なんですから」
「あぁ、分かった」
トモアキに微笑みながら頷いていたが、胸の奥はひどく痛んでいた。
(僕に向けてくれるその笑顔も、心配をしてくれるそのあたたかい言葉も本当にすべて偽りなのか? …トモアキ、教えてくれ)
ついこないだまでは、彼を信じていたのに。今ではやさしくされるたびに、つらくなるばかりだ。
あのとき、あんな光景を見なければよかった。知らずにいれたらよかったのに……。
「そう言えば昨日、町でおもしろいことがあったという話を聞いたんですよ」
レイヤの気持ちにはまったく気づかない様子で、楽しげに報告をしはじめるトモアキ。
あまり外へ出ることができないレイヤに、トモアキは所用で出かけたついでに人々とから聞いた話を、いろいろと聞かせてくれていた。
「へぇ、なんだい?」
「それがですね……」
話に相槌を打ちながら、耳を傾ける。
「それはおかしいね」
「でしょう? わたしもそう思いまして。…あ、すっかり話し込んでしまいましたね。もう朝食の準備もできていますから、身なりを整えたあとでいらっしてくださいね」
「分かったよ」
「では、わたしはこれで失礼させていただきます」
今日の夕方にはパーティーが催されることになっていた。国に大きく貢献した者や由緒正しい家柄の者たちを一斉に集め、次期王となる王子との交流をはかろうというのがその目的だ。
国は王がいるだけでは維持も発展もできない。どれだけ優秀な王だろうと1人ではやっていけず、知恵や力を持った有能な補佐役と財産家の援助が必要だ。そんな彼らとは、表面上だけだろうが今のうちに仲良くしておいたほうが得策である。当然、王子は必ず出なければならなかった。
「――レイヤさま、そろそろご用意下さい」
机の前に座って公務に勤しんでいると、トモアキから声がかかる。レイヤは正装する用意をしはじめた。
広いホールにはキレイな装飾がされていて、それだけで華やかだというのに、貴婦人たちの色とりどりのドレスのおかげで、よりきらびやかな世界として人の目にうつる。
「王子様、またお会いできてうれしい限りでございます。その後、お変わりありませんか?」
「お気遣いありがとうございます。私はこの通り元気ですよ。婦人は相変わらずお美しいですね」
「まあ、お上手ね。もしよろしければ、後で1曲踊りの相手をしていただけないかしら?」
「もちろん、よろこんで。…ではまだ他の方への挨拶がすんでいませんので、失礼致します。後ほど、貴女と踊れることを楽しみにしていますよ」
軽く礼をして、また別の人へと移ろうと視線を彷徨わせる。挨拶の順も大事で、間違えると失礼にあたる。
大方終えたあと、レイヤはホールの中でひときわ異彩を放つ2人組の方へと歩み寄った。薬師特有の礼服をまとった、今回の新顔だ。
「初めまして。薬師のコウと申します。そしてこれは、私の弟子のミカドです」
「初めまして」
レイヤと同じ年くらいであろう弟子が、長の紹介を受けてお辞儀した。
「噂は聞いております。どんな病も薬師の長にかかれば、すぐに治ると」
「王子のお耳にまで届いていたとは──身に余る光栄ですね。ありがとうございます」
挨拶をしていると、ふとレイヤと弟子の視線が合う。海のような深い青の瞳で、とらえた者の心を見通してしまいそうな鋭さに、レイヤはおそろしくなって、師匠の方へと視線を逸らした。
「挨拶だけですみませんが、この辺で失礼させていただきます」
「ええ、それでは」
礼をして足早に去る。ずっと立っていたせいで、疲れがたまってしまったため、レイヤは1度控え室に戻ることにした。
「少し休んでいるから、用があったら声をかけてくれ」
控え室前にいた警備兵に声をかけて、中に入る。
置いてあるものはテーブルとイスくらいなものだが、壁紙といい、照明のシャンデリアといい、控え室とはいえ見るものを魅了するきらびやかさは失われていない。
イスにのばそうとしたレイヤの右手は、むなしく空を切るだけに終わった。
(どうし…て)
手をのばした瞬間、急に頭に衝撃が走って、目の前の景色がまるで霧がかかったようにうつった。あまりに突然のできごとで、とっさに揺らぐ体を支えようとして片膝をつく。
(まだ…僕にはやるべきことが、ある)
必死に意識を保とうとこぶしを作り、爪を手のひらに強くくい込ませる。すると、扉の向こうから大きな声が聞こえてきた。
「王子はただ今休んでおいでです。ここより先はお通しできません!」
「王子の無事を確認したらすぐに行きます。先ほど様子がおかしかったように見えたものですから、どうしても気にかかるのです」
「ですから無理だと…」
「――うるさい、いいからどけ!」
若い男が怒鳴り、その者であろう足音が徐々にこちらに近付いてきた。
(まずい、こんな姿を見られでもしたら…)
間違いなくパーティーは強制終了。そんなことはできない。しかしどうやってこの場を乗り切ろう?
「――おい、どうした?」
レイヤの耳に響いた声は、おそらく弟子のものだろう。
「顔色が悪いな…。とりあえずイスに座って…」
その言葉に導かれるように立とうとしたが、体を支えてもらっても体勢は立て直せず、2人一緒に崩れ落ちた。
(目もはっきりと見えないし…体も重いっていうのに立てるわけが…ないだろう?)
薬師の弟子が悪いワケではないのに、自分の体が思うように動かないため、心の内でやつあたりをする。そして、そのまま気を失った。
(う…ん…)
レイヤの目が覚めてゆっくり目を開けると、いつもの自分の部屋だった。ただひとつ違うのが――
(…どうして……)
ベッドから少し離れた辺りにあるイスに、あの薬師の弟子が座りながら寝ていたこと――それが明らかな違和感だった。
「おや、目が覚めましたか」
ノックもせずに部屋の中に入り込んできたのは、薬師の長だった。レイヤは視線で隣を指して、彼に尋ねる。
「彼がどうしてここに?」
「この子ときたら、王子が倒れたのは自分のせいでもあると言って。どうしてもここを離れないと、だだをこねたのです。師である私が交代しようと声をかけても、まったく耳を貸さなくて…。困った子ですよね」
そういえば、自分は不覚にもパーティーの最中に気を失ったのだった。その失態に思わず眉をひそめて、けれども近くに薬師の長の存在に気づき、平静を装ってさらに訊いた。
「…あれからどれくらい経ちました?」
「丸1日といったところですよ。あぁ、喉が渇いたでしょう? 今お水を持ってきますね」
長はまた部屋を出て行き、手にコップを持って帰ってきた。
普段そういったことは、傍に控えているトモアキがやっていたが――今はいなかった。だが今回のことで、彼にも自分の不調を知られてしまっただろう。今までの苦労が泡になってしまった。
「――お体を起こさなくても構いませんので、お話しさせていただけませんか? ちょうど、この子も眠っていることですし」
ひと息つくと、長がそう話しかけてきた。ちょうど、とはどういう意味だろう。弟子に聞かれてはまずい話なのだろうか。
「あなたは自分の病がどんなものかご存知ですか?」
「………」
決してまったく分からないというわけでもないような気がするが、かと言って分かっていると言えるほどでもない。
「このまま放っておいても、死ぬことはありません。あなたが治そうと思わない限り一生、苦しむだけです。あなたの病は、心の病なのですから…」
「僕の体もろくに診ていないのに、よくそんなことが言えるね。それとも寝ている間に何かしたのかな?」
心の病。それを聞いたとたんに、レイヤは眉間にしわを深くよせる。そんなわけないだろうという否定ではなく、そうであってほしくないという願いがあったから。だが、長は冷静に答える。
「熱があるかどうかということと、脈拍ぐらいは調べましたが。他はまったく」
それじゃあ、ほとんど調べていないのと同じではないか。
「ならどうして分かる?」
「私は薬師なのですよ、王子。症状を見ればたいていのことは分かります」
揺らぎのない瞳に捕らえられ、観念せざるを得なかった。ごまかせる相手ではない。
「……どうすればいい」
「ミカドを──この子を、しばらく預かってくれませんか?」
「……逆じゃないのか」
今の自分には薬師が必要だ。長は自分に気を遣って、頼みごとをしたのだろうか、とレイヤは思った。
「いいえ。師である私が言うのもなんなんですが、この子は非常に優秀な弟子でしてね。君と同じ年だというのに、私が教えることができる、あらゆることを習得してしまったんです」
「そのことと、どんな関係がある?」
「貴方の傍にいれば、もっと多くのことを学べる。貴方の病は非常に興味深いものですからね」
「…つまり僕を利用すると?」
「えぇ、その通りです」
悪気もなく、にっこりと微笑む。しかしレイヤの表情がかたくなったのを見て、長は瞳を鋭く細めた。
「貴方もこの子を利用するのですから、おあいこでしょう?」
「利用…」
「この子はとても口が固いし賢い。だから王子である貴方の悩みをすべて受け止めることができるでしょう。この子以上に使える子はいないと思いますよ」
「まるで商品をすすめられているみたいだな」
自分の弟子を道具みたいに扱う長。なんだか腹が立った。けれども長は平然と返す。
「それがなにか?」
「…別に」
この薬師の弟子がどう扱われようと、レイヤには関係ないはずだ。なのにどうしてだろう、こんなにもイライラするのは。
(…あぁ、そうか。僕が父に扱われているのと同じ扱いをされているんだ、あの弟子は。だから自分と重なってしまう)
「──それで預かってもらえますか?」
「分かった、預からせてもらうよ」
契約の成立だ。それ以来、ミカドは王族の専属の薬師となった。